京都大学名誉教授が語る「最高の伴侶」とは

「婚活」を支援する仕事を通じて、会員のみなさまお一人お一人に向き合い、あらゆる結婚観をお伺いする日々を過ごしていますが、結婚の根幹となる「最高の伴侶」の定義について、私自身が長らく模索していました。

一緒にいることによって、自分のいい面に気づき、自分の心が開いていく気がする。お互いにそうしたことを感じられる関係こそが最高のパートナーであると、私も深く共感します。

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 一緒にいたいと思う心情は、単に相手が美しいとか、頼りになる逞しさ(たくましさ)をもっているからといったものではないだろう。愛情の第一歩は、一緒にいるのが楽しい、一緒にいることそのものが大切な時間として意識できる、そんな単純な感情であろう。それはそのままでいいのだが、もう一つ、一緒にいることによって、自分のいい面がどんどん出てくると感じられる相手こそが、ほんとうの意味での伴侶となるべき存在なのだと、私は思っている。

 一緒にいると、どうしてもその人間の欠点ばかりが見えてくるという人は確かにいるものだ。あるいは相手の欠点ではなく、一緒にいるとどうにも自分の嫌な部分・側面が見えてしまう、そんな相手もあるものだ。そんな存在とは、一緒にならないほうがいい。一緒にいると相手のいい面に気づく、そのいい面に気づく自分がうれしく感じられる。その人と話していると、どんどん自分が開いていく気がする。お互いにそんな存在として相手を感じられるような関係こそが、たぶん伴侶と呼ぶにふさわしい存在なのに違いない。

 どんな大学に入学しても、どんな賞を獲得しても、どんな大会に優勝しても、どんな素晴らしい成功を収めても、心から喜んでくれる人がいなければなんの意味も持たないのとちょうど逆に、ほんのちょっとした自分の行為を心から褒めてくれる存在があるとき、自分がそれまでの自分とは違った輝きに包まれているのを感じることができる。

 私はこの文章を、若い人たちを念頭において書いてきているが、ぜひそんな一人に出会うことによって、それ以前には自覚できていなかった「輝いている自分」に出会ってほしいと願っている。心から愛することのできる人を得ることは、すなわち自分のもっともいい部分を発見することなのである。

 愛する人を失ったとき、失恋でも、死による別れでも、それが痛切な痛みとして堪えるのは、愛の対象を失ったからだけではなく、その相手の前で輝いていた自分を失ったからなのでもある。私は2010年に、40年連れ添った妻を失った。彼女の前で自分がどんなに自然に無邪気に輝いていたかを、今ごろになって痛切に感じている。

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永田和宏「知の体力」(新潮新書)P219〜220
発行:2018年5月20日